予備校談義 その2

さて、私の頃は、
「講師の駿台、テキストの代ゼミ、机の河合」であった。
その時代を生きた者として、あくまで独断で、その内容を説明しよう。

まず、駿台が予備校の老舗であった。
当然、講師も一番カタいのが駿台に集まる。
受験産業に限らず、企業の基本は人材だ。

そして駿台は、生徒の学力も、放っておいても高いのが集まる。
となると、そこは、
たまたまその年に落ちてしまった学生をとりあえず一年間養うところ、
という位置づけとなる。
つまり、ある程度なら放っておいても受かるので、
あんまり積極的に質の向上に働きかける必要はないのだ。

うまい食い物屋の店内が得てして汚いのと似ているかもしれない。
それにしても。
駿台の建物の汚さは、高校生の目から見ても、
そりゃあんまりだよという感じであった。
浪人はいやだねえ、はやく大学生になりたいねえ、
と思わせるのに十分。
ただ、当時の大学のキャンパスは、
入学してみればとても明るいものとはいえず、
荒涼としているのが常であった。
その意味では、駿台の薄暗さは、
むしろ大学生活をリアルに体験させるものであったのかもしれない。

話を戻して。
良いんだか悪いんだかわからないけれど、
駿台は、無理難題を吹っかけとけば
生徒のほうが勝手に勉強してしまって、
しかもそれをこなしてどんどん学力が上がってしまう、
なんてところがあったように思う。
講師やテキストは、レベルこそ高いけれど、
わかりやすいものとはとてもじゃないがいえなかった。
もちろん、私の目から見れば、である。
…これも、大衆化以前の「大学」に通じるものがあるな。

駿台に対し、代ゼミはどうか。
講師・生徒という人材ではり合っては、駿台に勝てない。
であれば、講師に匹敵するものの整備が良策だろう。
それが「テキストの代ゼミ」へとつながる。
学生はテキストを手許に、講師の話を聞く。
講師のレベルにばらつきがあっても、
テキストというタガで均一化、底上げを図ることができる。
サービスの特徴はまずこうして形成された。

他方、生徒はどうか。
駿台のようなわけにはいかないのは講師と同様。
代ゼミは、いまいちの学生をフォローするというイメージとなる。
やる気になってくれないと困る。
なので勉強が楽しいと思ってもらうことに力を入れていたのだろう。
駿台のような研究者然、あるいは教授然とした講師ではなく、
エンターテーナーのような、講義中にウケを取れる講師が、
当時もたくさんいた。
従って、後世に「テキストの代ゼミ」から「講師の代ゼミ」へと
評価が変わっていったのもよくわかる。
(ただしそれは、旧バージョンで「講師の駿台」といった場合の、
「講師」とは方向性を異にしてだが。)

別の見方をすれば、
一番上というものには興味のない生徒が、
それぞれに自分の居場所を見つけるという場所でもあったから、
生徒同士が切磋琢磨するような雰囲気は、なかったといってもよかろう。

その場は楽しくても、自分の能力が上がったような気はしなかった。
もっともそれは、代ゼミが悪いんじゃなくて、自分自身が、
多分、楽しませてもらうという受身の立場に甘んじてしまうんだろうな。

さて、駿台も代ゼミも、
それぞれ駿河台、代々木という東京の地名である。
奇しくも山手線の東西端に位置する。
ここに参入してきたのが、名古屋を起点とする河合塾である。
沿革を見ると1977年に東京進出とある。
(ちなみにきちんとWebサイト上に沿革が記してあるのは、
3大予備校のうち河合塾だけのようだ)

新参者の常として、自慢できるのは、新しい施設しかない。
しかない、と表現したものの、とても大事な要素だ。
ほかには、講師のアシストをするチューターという制度が目新しかった。

駿台の机は全く人を人とも思わないようなものであった。
前後左右ともにスペースがないので、
左肩を引いて、右肩をぐっと前に出して、斜めになって着席する。
世に言う「駿台フォーム」である。
他方、代ゼミは大講堂によく見られる、床に固定された長机であった。
大人びた雰囲気はあるものの、やはり自由度は低い。
そして、河合の机は、高校の教室にあるとおりの、
普通の、個人用の机であった。
「机の河合」というのは3段落ちのギャグではなく、
本当に、他の二つに比べて、誇れる長所であったと、個人的には思う。

というわけで、上のような言い回し、
さらには3大予備校というブランドが確立した。
逆に言えば、首都圏の予備校に河合塾が参入しなければ、
このような標語(?)はできなかったんじゃないかな。
やはりこういうのは3つ並べるのがすわりがいい。
(つづく)

なにかひとこと。