予備校談義 その3

さて、昔話と比較して、
現行のバージョンの特徴は、「生徒」が表に出ていることだ。

旧バージョンでの注目対象は、
あくまでそれぞれの予備校という「店」が提供するなにものかであり、
それを、生徒という「客」の立場で評価していたといえる。

これに対し、現バージョンは、
自分自身である生徒もまた、
その予備校と分かちがたい要素として評価の対象となっている。

「信者の代ゼミ 拍手の河合 平凡の駿台」
なんてのは、全て、そこに通う生徒を表現したもので、
旧バージョンのカウンターというかパロディーというか。

ちなみに、
昔の様子を知る者としては、
今、こうした言い回しが出てくるってことは、
かなりよくわかる気がする。
駿台が予備校のマスターピースの機能を果たせば、
そこで育てられる生徒は当然平凡な規格品になろう。
また、エンターテーナーが登壇すれば、
そこにファンが集まるのもうなづける。
そして、拍手の河合というのは、
やはりその参入の起源に由来すると考えられる。

そもそも「拍手」とはどういう行為か。
特別なものを持った個人(或いは少数グループ)が、
ある特別なことを披露する。
それを、別に特別でもなんでもない集団、観衆が見物する。
観衆は満足すれば拍手するし、不満であればブーイングだ。

さてこの「拍手」を通じて形成される関係とはなんだろう。
明らかに上下関係である。しかも、
本日は、ご高名な方から大変ありがたいお話をうかがいまして、
どうもありがとうございました、という上下ではない。
正反対のものだ。

芸人は、お客さんに見てもらうだけで十分幸せ、
それが拍手なんかもらっちゃった日には大感激。
客は、見に来てやっただけでもありがたく思え、
おひねりなんざ投げるほどのことでもないが、
こっちの存在を知らせるくらいのことはやってもいいぜ、である。

だから、舞台上の人間は、拍手を受けると、
ありがとうございますと頭を下げる。
また、感極まった観客は、
自分が「客」であることを恥じて立ち上がる。

つまり、拍手というのは、
ひとりの先生という高い立場から、
たくさんの生徒という低い立場へ情報を流す状況では、
本来、起こりえない現象である。

しかし河合塾ではそれが起きた。

生徒たちは、
新しくできた予備校があるけど、
のぞきにいってみたら、
けっこういいこといってんじゃん、
と、お客、旦那衆の立場からの評価を下すことができたのだ。
だからこそ拍手をすることに気負いはない。
そして、いったん、
拍手がこの河合塾という空間では失礼なものではない、
っていうかぁみんなやってるしぃ
(…なんて口調はもちろん当時は存在しない。すまん。
年寄りは真理を犠牲にしてでも若者に迎合したがり、
そして、その迎合が既に時代遅れであることには目をそむける、
身勝手な存在なのだ)、
と認知されてしまえば、
拍手というのは一応表面的には礼儀正しい行為であり、かつ、
普段は評価されてばかりの受験生が、
自らの意思でよいものをよいと判断する高揚感を持てる。
一石二鳥の習慣として定着したのだろう。
これを敷衍すれば、将来的に、
教育産業とはサービス産業である、
との認識が一般化すれば、
それは河合の専売特許ではなくなるのだろう。

拍手に関わってつい話が長くなったが、
「生徒」がSubjectではなく
Objectになってしまったという現象について、
もう少し考えてみたい。
(つづく)

なにかひとこと。