予備校談義 その4

人材が既製品になってからどれくらい経つだろう。
即戦力のある人材を求む、とか、経験者優遇、とかね。

ある場に参加しようとするときに、
自分がそこに何を求めているか、ではなくて、
自分に何が求められるか、
がひとつの価値基準になってどれくらい経つだろう。

と、疑問文で思わせぶりに書いてみたが、
別段目新しいことではない。
そういう考え方がだいぶ浸透してきたな、
と思うだけのことだ。
でも、なんだか世知辛いなあ。

ある集団に属するに当たり、
その個人の人格やごく抽象的な意味での能力、
社会性とか、常識とか、読み書きそろばんとか、
が審査されるのは自然なことだと思う。
これからいっしょにやっていく仲間なんだから。

けれど、昨今は、
本来その集団に属さないと身に付けられないような特殊な能力を、
平気で求めるようになっていないだろうか。

そういう一見不自然なことが、
いや、一見自然だがちょっと考えると不思議、というべきか、
前提としているのは、
そういう集団が、世の中に複数存在している、ということだ。
同じ業界で、
それなりのスキルを身につけているけれど、
現在の組織では不満がある、
そういう人に、
やることは同じで、いる場所だけ変えてもらう。

ま、
不景気だから企業は新人研修にコストをかけてられない、
ということであり、
また、
不景気の中で自分を売り込むためには
直接メリットが示せる長所でないと、
ということでもあろう。
どのみち世知辛いことには変わりないが、
そういう論理を支えうる社会構造ができているのだ。
何処かで誰かが同じようなことをやっている、
ということが期待できるくらい「社会」のスケールが拡大している。

ただ、考えてみれば、入試という制度そのものが、
その最たるものなのだ。
これから勉強させる場所なのに、
もう勉強できる人だけおいで、というのだから。
もちろん、高校までの勉強と大学での勉強は違う。
けれど、違うという建前を通そうとするならば、
違うのに何で学力で選別するの?
問題意識の深さで選別したほうがよくね?
というところにぶつかってしまう。

ま、それはおいといて。

特殊技能を養成するはずの場所に入るために
その技能自身を身につけている人でないと入れない、
というジレンマが一般化するとどうなるか。

そういう社会に生きる人にとって、
ある集団に所属する意味が、
その中で何らかのメリットを得ること、から、
そこに入り込むこと、だけに転倒していく。

あれあれ、
これって日本の大学に昔からいわれ続けてきたことだね。
入るのは難しくて出るのは簡単、と。
アメリカじゃあ反対だよ、って。
ほんとかうそかは知らないけど。

ま、それもおいといて。
これが、冒頭の、二つ目の疑問につながる。
この、手段と目的の転倒は、
自分を自分で見る、という方向に思考が向かうから、
自分が環境を求めていくことに自分の生を感じるのではなく、
環境が自分に何かを求めてくれることに、いきがいを感じる、
という転倒につながる。

今の若者たちは、
「黒服チェック」という言葉を知っているだろうか。
ディスコという娯楽施設に、客として出かけても、
入り口に待ち構えている店のスタッフに、
その服装では入店お断り、といわれてしまうことだ。
そして、それを喜ぶ客がいるという現象だ。
店の提供するサービスを楽しむためではなく、
この店に自分が入れてもらえるのがうれしい、
という価値の転倒。

でも、同じ現象が、予備校で発生するとは。
予備校で自己実現、なんて、
あまりにもなじみにくい発想だが、そうなるんだねえ。
おもしろいなあ。
「生徒の駿台」かあ。
(つづく)

なにかひとこと。